初子の生徒は小学生と中学生だが、高校生も一人教えている。
高校へ進学しても、初子先生とは離れたくない。
「どうしたの?」
いつの間にか俯いて黙ってしまった陽翔の顔を覗き込んだ。
真っ直ぐに自分を見つめてくれる瞳と向かい合い、陽翔はなぜだか涙が出そうになった。
「どうしたの?」
驚いて目を見開く相手に、慌てて目を擦った。
「何? 何か辛い事でもあったの? 唐渓、危ないの? 頑張れば無理ってワケではないと思うんだけど」
陽翔は、英語以外の成績も初子に知らせている。陽翔にとっては、初子こそが保護者。最も頼れる存在。
「それとも別の事? お祖母さんと喧嘩でもしたの?」
「違うっ」
ゴシゴシと顔を擦る。
「西日が眩しいだけだ」
「え? そう?」
窓を振り返る。夕日を浴びるその横顔は本当に綺麗で、本当に眩しいと陽翔は思った。
本当に、本当に大好きなんだ。俺、絶対に先生とは離れたくない。
「先生、高校行っても、ここに来ていい?」
「え?」
「高校行っても、英語教えてよ」
「え? いいけど、でも唐渓へ行くなら」
「俺、家から通うんだ」
陽翔は遮るように声を強めた。
「祖母ちゃんが寂しがるから、だから俺、唐渓に行っても、家から通う」
別に祖母などどうでもいいのだが。
「だから、高校行ってもここに来るよ」
「でも、唐渓の授業が終わってからだと、かなり遅くなるわよ。それよりも大手の進学塾へ行った方がいいんじゃない? 高校へ行けば今度は大学受験だもの。英語だけじゃなくって他の教科ももっと勉強しなくちゃならないだろうし」
「ここがいいんだよっ」
机へ向って叫んでいた。
「ここがいいんだ」
遠くでカラスが鳴いた。二人の影が、少しだけ長くなる。
「ここに来る。唐渓行って、大学行って、そうして俺、先生を楽にしてやるよ」
呟くような、それでいてどこか切羽詰ったような声で語る陽翔を初子はしばらく凝視し、やがて優しくその頭を撫でた。
「そうね」
そう言って、帰りを促した。
あの言葉は本気だった。寂しさに呪縛された祖母との二人暮らしは、思春期を迎え始めた陽翔には窮屈でしかなかった。
先生との二人暮らし。
それは、いつしか頭の中で、いつかは現実になるのであろう夢として膨らんでいった。
いつか、先生と一緒に住もう。
そうだ。俺がいつか社会に出てお金をたくさん稼げるようになったら、そうしたら先生と一緒に住むんだ。先生は、俺と一緒に暮らしたらきっと毎日が楽しくなると言ってくれた。きっと、俺が社会人になってもう一度告白したら、そうしたら今度は受け入れてくれる。
そうだ、先生が俺の告白を本気にしてくれなかったのは、俺がまだ中学生だからだ。俺の言葉を愛の告白だとも気づいてくれなかったのは、今の俺には、まだ先生と一緒に生活できるだけの力が無いからだ。
いつか先生を俺の力で幸せにしてあげよう。その為にはもっと勉強して唐渓へ進学して、有名大学へ行かなければいけない。
陽翔の夢は膨らんだ。どこまでも明るく、どこまでも華やかに広がり、そして希望に満ちていた。
勉強にも熱が入った。英語以外の教科でも常に良点を取るようになった。さほど教育熱心でもない公立中学からでは難しいであろうと、唐渓への受験に難色を示していた担任も、やがては毎日のように励ましてくれるようになった。
自分はやればできるんだ。
自信がつき、やがて周囲とも少しづつコミュニケーションが取れるようになっていった。中学三年生にしてようやく、学校でも心地良さを感じられるようになってきた。
だが、やはり一番落ち着くのは初子の英語教室だった。
来週はどんな事を話そうか?
次の英語教室での初子との会話をあれこれと考えながら、机に向っていた時だった。
背後でノックの音が響いた。
「何?」
振り向きもせずに短く答えると、祖母がゆっくりと扉を開け、部屋を覗き込んできた。
「陽翔」
「何?」
「今、電話があってね」
「うん?」
そう言えば、さっき家電が鳴ってたな。
ぼんやりと思う陽翔の耳に、祖母の言葉が冷たく響いた。陽翔は、言葉の意味が理解できないまま、ただ宙の一点を凝視していた。
山脇初子が亡くなった。
翌日、祖母と二人で通夜の会場へと向った。
その日は一日呆けていた。先生の言葉など耳にも入らず、授業を受けていた記憶すらない。どうやって登校し、どうやって下校したのかも覚えていない。
帰ってからもやはり呆然として、頭が思うようにまわらなかった。住所を頼りにネットで通夜の場所を検索して行ったが、かなり迷ってしまった。祖母は地理には疎いし、陽翔は放心状態で、気が付くと道路の真ん中でフラついていた。
会場に着いてからも、陽翔は状況が理解できないでいた。
先生が死んだ? 死んだ?
まったく理解できない。
死んだ? 死ぬって、どういう事だ?
「この度は誠にとんだ事で…」
挨拶をしている祖母の横で、陽翔はぼんやりと突っ立っていた。通夜の時間は過ぎていて、他に弔問客はいなかった。
「どうぞこちらへ。お線香を」
案内されて中へ入った。正面に飾られた初子の写真。屈託の無い笑顔でこちらを見ている。今にも動き出しそうな瞳を携えた、まるで春のような暖かさ。だが陽翔には、それが初子の顔だとは思えなかった。
どのように見てみても、初子と視線が重ならない。微妙に外れた位置を見つめている。
|